#44 グローブ・トロッター
巨大化した都市が最初に失う色は“青”。海の青さも空の青さも、煤けた雲の下や、にび色の海の傍らで暮らし続けると、たまらなく恋しい存在になる。おそらく世界で最初に“青”を失ったのは英国の人々であろう。産業革命による莫大な利益と雇用、急速な近代化の代償として、ジョンブルたちは“青”を差し出した歴史がある。だからであろうか、ロンドンから旅立った飛行機が、厚くて重い雲を突き抜けた途端、機内で拍手が起きる光景に出くわすことがある。職人による革製の茶色い鞄がまだまだ旅の定番だった20世紀初頭、旅のイメージを強く想起させる深い海と空の色であるネイビーを採用したトラベルケースが登場した。“青”に飢えていたジョンブルたちはこぞってそのケースに飛びついた。伝統と革新が相交わる英国伝統の価値観に従って、そのとてつもなくモダンな素材とデザインがほどこされたケースは、英国紳士の新しい定番となったのである。『グローブ・トロッター』は21世紀の今も、旅に特別な思いを抱く感性豊かな人々の愛用品であり続けている。旅を単なる移動手段としか捉えていないような人にはきっと似合わないだろう。なぜならば、この鞄そのものの存在感に溢れんばかりのロマンチシズムが漂い続けているからである。
ロイヤルブルーの色鮮やかなボディが印象的なグローブ・トロッター「クルーズ」。2003年に、限定発売されたカラーで再発売を切望する声に応えて、10年ぶりとなる今年、再び店頭に並ぶことになった。ロイヤルブルー×ネイビーの組み合わせで、数あるトロリーケースの中でも、圧倒的な品格を備えた存在といえるだろう。
GLOBE-TROTTER/グローブ・トロッターという名称は「地球を歩く人」また「世界を歩く人」という意味から命名された。7つの海を支配した英国人らしい発想のネーミングだ。
グローブ・トロッターのエンブレムを見ると「The worlds most famous Suitcase」の文字の下に“1897”と書かれた数字を発見できる。これが同社の創業年である。グローブ・トロッターは、その頑丈さを的確に表現するための広告として採用した、象がトラベルケースの上に乗っているイラストで、一躍世界にその名が知られる存在となった。特筆すべきは創業当時から最先端の機械を用いてケースを生産したことと、そのために最新の素材を選んだことだろう。その素材は「ヴァルカン・ファイバー」。1851年に英国で発明された素材で、特殊な紙を何層にも重ね、樹脂でコーティングして耐久性を大きく高めた新素材でもあった。特殊加工した素材ではあったが元は紙なので、革やその他の素材とは比較にならないほど軽量化が図られた。強度を持たせる工夫がケースの随所にほどこされ、たわみを分散する構造を実現。当時はまだ加工が難しかったこの素材を、最新の機械とクラフツマンの技で完全にプロダクト化したのである。職人が革を使って手作業で鞄を作るのが当たり前だった時代に、特許も取得した革新的な手法でケースを作り上げた。
その後、110年以上経ったいまでも、同社は創業時とほとんど変わらない手法と、熟練した職人のクラフツマンシップとで、ヴァルカン・ファイバー製のケースを作り続けている。船旅が一般的だった20世紀初頭からグローブ・トロッターは人気のトランクとなった。もちろんその人気は、航空機による移動が当たり前の時代になっても変わることはなかった。歴史に名を残す人物の傍らにあったことも少なくない。たとえば英首相ウィンストン・チャーチルや、冒険家のエドモンド・ヒラリー卿、あのタイタニック号に乗船した多くの人々もグローブ・トロッターを持参していたという。また、英国王室内にも愛用者が多く、エリザベス女王もその一人である。近年、同社は大手メゾンやファッションブランドとのコラボレーション・モデルを積極的に発表している。2008年には、初めてヴァルカン・ファイバー以外の素材であるカーボン・ファイバーを使ったトランクを発表し、さらなる軽量化と剛性を実現して、各方面からの注目を集めた。100年以上前からほとんど変わらない四角い箱ではあるが、歴史と伝統を大切に守りつつ、いまなお進化を止めないブランドである。トラディショナルなものとアヴァンギャルドなものが同次元で語られるモノ作り、いかにも英国的な製品である。
同社の工場は、ロンドン北東部のハートフォードシャーにある。創業当時の英国はヴィクトリア朝時代。驚くことに、その時代の機械がこの工場ではいまなお現役で使い続けられているという。職人の多くも40年以上のキャリア。
初出:ワールドフォトプレス発行『モノ・マガジン』 2013年2月16日号