1955年以来国産乗用車、ひいてはトヨタの代名詞的存在のクラウンがフルモデルチェンジしました。
ジツに16代目のモデルになります。発表会で豊田社長は徳川幕府の15代になぞらえ、16代目クラウンは明治維新と例えたように、落ち着いたセダンからクロスオーバーモデルへと大きく変わりました。また海外での販売も同時にアナウンスされるなど、幕藩体制が黒船に揺らいで明治維新へと変わったように、新型クラウンは旧時代の体制から脱却するというモノです。まさにクラウンはセダンでしょ、国内専用車でしょ、と考える方には黒船ともいうべきモノかもしれません。
これはこれでカッコいいけれど、クラウンなのかねえ、という反応もありますが、そこはクラウンの歴史を、日本の自動車史をちょっこと見れば「やっぱりクラウンだ」となるかもしれません。
各自動車メーカーの歴史はいろいろでていますが、意外に「日本の」となると少なくなります。諸説ありあすが、日本に初めて自動車の記述があるのは、1898年(明治31年)にフランス人技師が日本に初めてクルマを持ち込んだとあります。1903年(明治36年)に開かれた内国勧業博覧会でもクルマは展示されましたがやはり輸入車。ちなみに公務員の初任給が8円前後だった時代、これらのクルマは8000円という衝撃的な価格だったそうです。その後、純国産車が登場したのが1904年、山羽式蒸気自動車です。しかしタイヤの技術が追いつかず、実用には向かず、すぐに解体されたようです。その後は海外メーカーのモノをノックダウン生産するのが大半を占めていましたが、有事にの際、輸入が途絶えては困る、などの背景もあり国産車の開発(主にトラック)がすすめられました。そして戦後。しばらくの間トラック以外の乗用車の製造はGHQにより禁止され、生産台数や排気量の条件付きでようやく許可が下りたのは1947年。そんな背景で誕生したのがトヨペットSA型です。
そして、1951年にはトヨタ自動車の看板の双璧をなす、初代ランドクルーザーが誕生。このようにどこにも国産高級セダンが見当たらない時代(戦前には3.4リッターエンジン搭載のトヨタ初の量産自動車トヨダAA型がありますが)にデビューしたのが我らが初代クラウンなのです。1955年のことです。
もちろん、このモデルはトヨタの技術だけで純国産車です。車両価格は約100万円。平均年収の12倍以上という高額車ですが、官公庁やタクシー、ハイヤーに需要がありました。
話はぐるっと変わって16代目クラウンです。上記のように自動車といえば軍用のトラックやジープ、ソレをベースにしたハイヤー向けセダンが主流でした。もしもスポーツモデルやオープンモデルが主流の歴史だったら、クラウンはオープンカーのイメージになっていたかもしれません。そんな世界ならば、クラウンがセダン!? となったはず。発表会で豊田社長は「クラウンの歴史は革新と挑戦の歴史」とも言っていました。クラウン=セダンとイメージ付けされたていますが、挑戦とは広辞苑によれば「戦い、挑むこと」とあります。つまり、そんな固定観念への挑戦も含まれているという意味でのクロスオーバーモデルなのかもしれません。