いつの時代も映画興行シーンにビッグな祭りを巻き起こす大スター・キングコング! 4月26日から公開の『ゴジラxコング 新たなる帝国』も話題沸騰の今、1976年の日本に雄叫びを響かせた、ジョン・ギラーミン版『キングコング』に、改めてスポットを当てる。後編では当時の映画宣伝にまつわる、今だから言えるエピソードも続出。インディペンデント配給時代を切り拓いた東宝東和の宣伝術とは? 『Mr.Boo!ミスター・ブー』と『スパルタンX』の名付け親・竹内康治が語る!
写真/鶴田智昭(WPP)、モノ・マガジン編集部 取材・文/須藤統三
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⚫︎『キングコング』から始まった東宝東和
――竹内さんが東和に入社されたのは何年になりますか。
竹内 1969年です。まだ東宝東和になる前の東和時代で、作品で言うと『個人教授』(68年)のときですね。最初は試写状を出したり、宣伝用のスチールをマスコミに送ったり、『個人教授』の音楽をラジオのリクエストで出したり、という雑用仕事です。ルノー・ヴェルレー(『個人教授』主演。貴公子のようなルックスでアイドル的人気を博した)が来日したときにはその対応もしました。
――東和は1928年に創業して、1975年に東宝東和に社名を変更したとき、社長が川喜多長政氏から、実業家・白洲次郎氏の長男である白洲春正氏に変わりますね。
竹内 白州さんは東和の外国部にいた方で、ヨーロッパで画家を目指していたのを川喜多さんがスカウトしたと聞きました。東和は昔から、ヨーロッパの伝統的な映画を公開してましたから。
――東宝東和に変わって以降、アメリカ映画の買い付けが増えたり、ヨーロッパ映画でも自由な宣伝が増えますが、これは白州氏の意向だったのでしょうか。
竹内 そうではないです。当時ヨーロッパ映画がかなり落ち込んできて、これからはアメリカ映画もやらなければならない、という時代の流れですね。川喜多会長も第一線で続けていましたし、『サスペリア』(77年)を買うことは東宝からの提言でした。
――『キングコング』の頃、東宝東和の宣伝部は何人くらいいたんですか。
竹内 15~16人ですかね。アドバタイジングとパブリシティ、それからタイアップの3つの部門があって、それぞれに宣伝部長がいます。当時は東和に宣伝プロデューサーを置いていなかったので、それぞれの宣伝部長を中心にプランを練っていました。
――『キングコング』は76年2月から宣伝をしていますが、これはかなり早いほうでしょうか。
竹内 12月18日公開で、10ヶ月前の2月から宣伝してるわけですからね。早いです。規模によりますが普通は3ヶ月前とか、作品によっては1ヶ月半とか、そんなもんです。2月の段階では宣伝できるものもほとんどないし、キービジュアルとキャッチコピーで押していくしかない。「キングコングは史上最大のキャラクターだ!!」「キングコングこそ永遠のロマン」とかね。5月くらいにはアメリカの20mの等身大のコングが大きな話題になっていたんで、その写真を使った壁新聞を作ったり、とにかく「巨大」で売りました。
――『キングコング』は10ヶ月かけて宣伝した大作ですが、他の映画も同時に宣伝しているわけですよね。77年2月には円谷プロとランキン・バス プロダクションの合作『極底探険船ポーラーボーラ』なども配給しています。
竹内 宣伝チームで年間25、6本あって、全部同時進行です。といっても僕は『ポーラーボーラ』はほとんど担当していなくて、当時の製作の円谷皐さん(当時の円谷プロダクション社長)に打ち合わせで挨拶をした程度。『キングコング』をやってるときは、邦画で大島渚監督の『愛のコリーダ』(76年)があった。邦画のほうが大変なんですよ。『キングコング』は元になるビジュアルがあるし、ヨーロッパ映画も自由にできる。邦画は一から作るうえに細かいチェックも必要ですからね。まぁ『愛のコリーダ』は特別に大変でしたけど(笑)。
⚫︎コング以外のスターたち
――『キングコング』の宣伝キャンペーンで、ヒロインのジェシカ・ラングが来日した際は、竹内さんはほとんど関わらなかったとのことでしたが、他の海外スターはアテンドすることがありましたか。
竹内 『キングコング』の頃は上司が付いたりしてましたからね。後には、80年代はジャッキー・チェン、90年代はアーノルド・シュワルツェネッガーなんかによく付いてました。ジャッキーは気さくだけども、取り巻きが多くてそっちが大変なんですよ(笑)。「ディスコ連れて行け」とかね。
――ちなみにジャッキー・チェンは食べ物は何が好きなんですか?
竹内 から揚げです。名古屋の手羽先。
――好感度が上がるエピソードですね(笑)。一番大変だったのは誰ですか。
竹内 ミック・ジャガーですね。『フリージャック』(92年)のとき、入国管理で揉めちゃってね。しばらく成田のホテルに滞在してもらったんですが、怒って「帰る」って言い出して。石井君という英語ペラペラの担当が付きっきりでした。まぁこれはあまり書けないので……。
――竹内さんはゴールデン・ハーベストの一連の作品も担当されていると思いますが、ブルース・リーの『死亡遊戯』(78年公開。72年にクライマックスのアクション・シーンのみを撮影し、リーの急逝により未完となった)はご苦労されたのではと思います。
竹内 ああ、『死亡遊戯』は大変でしたね。ブルース・リーが10分しか出てこないんですから。その前のゴールデン・ハーベストとのゴタゴタから、「『死亡遊戯』は東宝東和で」と話は決まっていたんですが、映画が完成するのに何年もかかった。『カサンドラ・クロス』みたいに、ワールドプレミアとして香港で『死亡遊戯』の試写会をやったんですが、リーが10分しか出てこないっていうのを、いかにして隠すかですよ。マスコミに、「10分しか出てこないってことだけは書かないでくれ」と言って、日本では試写をやらなかったんです。今だったら炎上でしょう(笑)。
――当時らしいエピソードですね(笑)。東和が東宝グループとなった経緯ですが、ゴールデン・ハーベストのレイモンド・チョウ社長が、付き合いの長い東和より、メジャーな東映を優先したことで、川喜多社長が東宝グループとなる決心をしたというのは本当ですか?
竹内 いや、それだけじゃないです。当時東和の業績が悪くて、希望退職を募ったり人員整理してましたから。もちろん海外での買い付けをスムーズにする狙いはあったでしょうが。ブルース・リー作品を買い付けたとき、ゴールデン・ハーベストの映画はパッケージ買いで、『Mr.Boo!ミスター・ブー』(76年)もついてきたんです。
――ホイ三兄弟は日本でも大人気になりますね。
竹内 それが、2年後くらいに、映画館の穴埋めで『Mr.Boo! ミスター・ブー』を公開したら大当たりして(日本公開79年2月)。
――最初はまったく期待してなかったんですか。
竹内 いやぁ、オマケでしたからね。映画見ても「これは日本じゃ無理だな」って思ってたんですが、78年の末にコメディ映画の『ケンタッキー・フライド・ムービー』が当たってたので、「まぁ穴埋めだしこれでいいだろう」と。それがあんなに当たるとは……。あのタイトルを考えたのは僕だったんです。
――「Mr.Boo!」の名付け親が竹内さん!(原題:半斤八两「ハンパもの」の意味)
竹内 高木ブーさんに似てるから「ミスター・ブー」って名前を考えて、「Mr.Boo!」にしたのは部長だったかな。他にも僕が考えたタイトルはけっこうありましたよ。『スパルタンX』とか。あれは僕が宣伝プロデューサーだったんで。
――『スパルタンX』も!(原題:快餐車、英題:Wheels on Meals) どういった由来なんですか?
竹内 『プロジェクトA』が当たったんで、次はなんとかBとかZにしようかと考えてたのと、たしか三菱の車のコマーシャルを「スパルタンのようにハードに」といったコピーでやっていて、それを聞いて、まぁ勢いです(笑)。
⚫︎当てるためには何をしてもいい!
――宣伝して楽しい映画というのはどういう映画ですか。
竹内 小さい映画は宣伝マンが自分で勝手にできるから面白いんですよ。どうやってお客さんに来てもらおうかといろいろ考えてね。 宣伝するにもA級、B級、C級とあって、A級は新聞やテレビにたくさん広告を打てるけど、C級はアイデア勝負みたいなもんです。楽しいのはB級C級ですね。
――アイデア勝負といえば、『ファンタズム』(79年)の「ヴィジュラマ方式」。黒いフードを被った悪魔が上映中に現れたり、映画館の天井に鉄球を吊って飛ばすなどのギミックが売りで、結局は試写でしかできなかったそうですが、語り草です。あれは何級に該当するんですか?
竹内 あれはB級。ホラー映画は、『サスペリア』以外はほとんどB級ですね。買い付けも安いし、宣伝費も多分5千万から6千万だったんじゃないかな。『サスペリア』の宣伝費は2億円弱で、配給収入は10億以上いってるんです。「決して一人では見ないでください」というコピーがウケてね。
――怖さが強烈に伝わる傑作コピーでした。
竹内 それからしばらくコピーを使った宣伝がメインになりました。一つのバイブルみたいな存在ですね。
――東宝東和の宣伝のカラーが徐々に変わっていったのは『サスペリア』以降でしょうか。
竹内 まさにそうですね。松本勉さんという人の力で、宣伝のスタイルがガラッと変わります。いわゆる「当てるための宣伝なら何をしてもいいんだ」というふうに。
――何をしてもいい。力強いですね……。
竹内 東和のそれまでの戦略はどちらかというと、いい映画の内容とストーリーをしっかり伝えることでした。そういう宣伝から、パッケージの宣伝に変わっていった。中身を売るんじゃなくて、包装紙を派手にして売るやり方。いい映画を、そのまま売っても当たらなくなってきたんですね。
――当時の東宝東和の宣伝を物語るのが『メガフォース』(82年)ですよね。要塞のような巨大マシン「タック・コム」が爆走するポスターに惹かれて見に行ったら、普通の車の改造で、サイズ感が全然違うという……(笑)。
竹内 あれは以前にインタビューを受けた『映画宣伝ミラクルワールド』(洋泉社)の巻頭言にも書かれていますが、本の著者の斉藤守彦さんにもだいぶ文句を言われました(笑)。あれは我々も見て「あー……」ってびっくりしましたから。製作費87億かけて作るんだって言ってたのに「これが?」って。まぁ……よくあんなの売りましたよね(笑)。
――誇張したポスターやキャッチフレーズ中心の宣伝で、騙されたつもりで見に行ったら予想に反して面白かったり、本当に騙されたり(笑)。東宝東和が時代を牽引していましたね。
竹内 そうですね。80年代までの東宝東和の宣伝は、業界全体に影響を与えていたと思います。
⚫︎なぜキングコングは人の心を掴むのか
――キングコング映画はその後も作られ、『キングコング』翌年の『北京原人の逆襲』(77年)など類似映画も多数存在します。
竹内 『北京原人』、あれは松竹ですよね。『キングコング』の後にこういう映画たくさんありましたからね。『キングコング2』(86年)も松竹富士が買ったんじゃないですか。
――『キングコング2』は76年版の続編ですが、東宝東和では買おうという話はなかったんでしょうか。
竹内 値段が高かったんじゃないですかね。でも正直、『キングコング2』はもうダメだろうなと思ってました。アメリカでも話題になっていなかったですし。
――歴代キングコング映画のポスターを見て、どれがいいポスターだと思われますか?
竹内 ビーター・ジャクソン版の『キングコング』(05年)はいい宣伝だと思いますね。「美女と野獣」というイメージをビジュアルでわかりやすく打ち出して、感動作らしく持っていく。他はみんなキングコングの姿を大きく載せた、怪獣映画の宣伝ですよね。
――05年版は76年版とは真逆のアプローチのように思えるので、意外です。
竹内 我々の宣伝は、大作感と大きさ、スペクタクルで売りました。でも本当はやっぱり、スペクタクルより感動なんですよね。76年版のポスターを日本で自由に作っていいとしたら、これに近いポスターも作っていたと思います。
――なぜキングコングはいつの時代も人の心を掴むのだと思いますか?
竹内 なんでしょうね。我々のキャッチコピーでは「キングコングは永遠のロマン」なんて言ってましたけど、やっぱりカワイイからじゃないですか?
――カワイイ! すべてのキングコングの共通の魅力ですね。
竹内 「美女と野獣」という言葉の通り、1人の女性に心惹かれる、心の優しさみたいなものがある。いまのコングも形は変わっても、幼い少女と心を通わせていますよね。ただ怖く恐ろしいだけじゃない。やっぱり「感動」は強い、ということじゃないでしょうか。
<前編はこちら>
(参考資料)
『映画宝庫 われらキングコングを愛す』(芳賀書店)
斉藤守彦著『映画宣伝ミラクルワールド 東和・ヘラルド・松竹富士 独立系配給会社黄金時代』(洋泉社)
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