2024年3月末をもって、陸上自衛隊からすべての74式戦車が退役しました。それも本州のすべての戦車部隊が74式戦車と一緒に廃止されるという、陸自史上類を見ない“戦車の大削減”となりました。
これにて、北海道を守る北部方面隊と九州を守る西部方面隊にのみ戦車部隊が残ります。
74式戦車は、東西冷戦真っただ中に誕生し、陸自黎明期から半世紀にわたり日本の主力戦車であり続けました。総数873両が生産され、北海道から九州まで日本中に配備されていきました。
その歴史を辿ってみましょう。
戦後、警察予備隊時代より、M24軽戦車及びM4中戦車やM41軽戦車といった米軍が戦中に使っていた戦車が供与されていきました。当時は戦車ではなく特車と呼ばれました。こうして米軍戦車により、日本の機甲科部隊の礎が築かれていったのです。
米軍戦車の配備と並行し、国産戦車開発も行われ、61式戦車が誕生します。
61式戦車は、主砲として52口径90mmライフル砲を採用しました。しかし、すでに当時の仮想敵であるソ連は、61式戦車の火力を超える55口径115 mm U-5TS(2A20)を主砲としたT-62を開発しておりました。日本は、戦後戦車開発に大きな後れを取ってしまいました。
そこで、61式戦車の配備が始まったばかりではありますが、早速新戦車開発をスタートさせます。これが74式戦車となります。
74式戦車は、主砲に51口径105mmライフル砲を採用しました。しかし国産とはせず、イギリス製のロイヤル・オードナンスL7A1砲を日本製鋼所がライセンス生産しました。戦車砲弾として、APFSDS徹甲弾やHEAT-MP多目的戦車榴弾などを使用できます。砲塔には、大出力、大光量のアクティブ投光器を取り付ける事も出来ます。
レーザー測距儀や弾道計算を行うコンピューターを搭載するなど、当時としては最新の射撃指揮装置等を搭載しました。
61式戦車にはなかった機構として、姿勢制御装置があります。油気圧サスペンションにより、前後に6度、左右に9度ずつ車体を傾ける事が出来ます。これにより、窪地や傾斜地など、地面が水平でなくても、車体の高さ・角度を調整し、砲塔を水平に保つことが出来るので、安定した射撃が可能となりました。
74式戦車は、まずソ連の脅威に晒されていた北海道への配備を急ぎました。
1974年に北部方面隊直轄部隊として第1戦車団が新編(前身となる部隊は、第1戦車群)されます。第1戦車団には第1~第3戦車群が内包されており、1978年から各戦車群に74式戦車が配備されていきました。こうして米軍供与の戦車や61式戦車を押し出していきました。
1981年、第7師団を機甲師団へと改編しました。これに伴い、これまで同師団に編成されていた第7戦車大隊を第71戦車連隊へと拡大改編しました。さらに前述の第1戦車団を廃止し、第2戦車群を第72戦車連隊に、第3戦車群を第73戦車連隊へと改編していき、現在と同じ3個戦車連隊体制が完成しました。なお、第1戦車群については、そのまま北部方面隊直轄部隊として残しました。
しかしながら、ソ連との軍事的均衡を保つにはまだまだ不十分と判断されます。そこで、1990年より全国の戦車大隊等から1個戦車中隊分の74式戦車と戦車乗員を北部方面隊へと集約していきます。これは後に「戦車北転事業」と呼ばれます。実は、今も北海道の戦車部隊には、九州や本州出身者が多くいます。彼らはこの時集められた隊員たちです。
戦車と乗員が増えたおかげで、第71~第73戦車連隊は1個中隊ずつ増やし、5個中隊編成としました。さらに1991年3月19日には、北部方面隊直轄部隊として、第316~第320戦車中隊を新編しました。
一方で、80年代初頭より北海道を守る局地戦闘用戦車となる新戦車開発も行われ、1990年より90式戦車として配備されます。北部方面隊の各戦車部隊へと90式戦車の配備が進み、74式戦車は、本州や九州、四国へと押し出されていく流れが出来ました。
その後、第316戦車中隊は、1995年に第2師団第2戦車大隊の第6中隊として吸収され、第2戦車連隊へと拡大改編されます。また、第5師団(現在の第5旅団)や第11師団(現在の第1旅団)にも74式戦車が配備されていきます。
こうして北海道は、74式戦車と90式戦車を配備する戦車王国となったのです。
ですが、冷戦が終結すると、一転、戦車削減へと舵が切られます……。
それについては後編でお話しましょう。
後編は近日公開予定。