50年前、『燃えよドラゴン』のブルース・リーによって日本中を席巻したドラゴンブーム。数多くの香港クンフー映画が公開されていく中で、創意工夫を凝らしたハードなアクションから、ブルース・リー作品に勝るとも劣らない人気を博した映画があった。その名は『帰って来たドラゴン』。
主人公のライバルを演じたアクション俳優・倉田保昭さんを一躍スターダムへと押し上げた作品だが、マスターネガの損傷によって再上映やHD化は絶望視されていた。しかし、本作の監督にして香港映画界の重鎮ウー・シーユエンが「倉田保昭 日本凱旋50周年」を記念して、現存の最良マスター素材を探し出し、自ら2Kリマスター完全版を完成!
7月26日、遂に日本のスクリーンで奇跡の復活を果たす『帰って来たドラゴン』。レジェンド俳優である倉田保昭さんに当時の思い出をお聴きしようと、倉田さんが道主を務める創武館道場にお邪魔しました!
取材・文/今井あつし 写真/鶴田智昭(WPP)
<あらすじ>
清朝末期。あらゆる犯罪と暴力が渦巻く金沙村。そこに悪を懲らしめながら旅を続けるドラゴン(ブルース・リャン)一行が訪れる。彼はチベットの寺院から盗まれた秘宝シルバー・パールを探し求めていた。不穏な空気が流れる中、女性ながら凄腕の拳法使いイーグル(ウォン・ワンシー)、殺人すら厭わない非情の空手家ブラック・ジャガー(倉田保昭)が姿を現す。シルバー・パールを巡って、ドラゴン&イーグル対ジャガーの壮絶な戦いが始まった――。
●あの頃の香港アクション映画の中でも、最も過酷だった現場
――今回『帰って来たドラゴン』の2Kリマスター完全版が公開されることで、まずは率直なご感想をお聞かせください。
はたして50年前の映画をいま上映して通用するのかという心配が非常にありました。現在とは違って、この『帰って来たドラゴン』の時代はCGやワイヤーといった手法は微塵もなくて、全編にわたって生身のアクションだけで構成されている。若い人がこの映画をご覧になって「どのように感じていただけるのか?」と不安でした。
しかし、いま皆さんが必要とされているであろう「生きるためのパワー」だけは伝わるかと思っています。
――倉田さん演じるブラック・ジャガーは敵役として、主人公のドラゴンに勝るとも劣らない存在感を放っています。役作りなどでご記憶されているところがあれば教えてください。
役作りと言っても、当時の香港映画は守秘義務が徹底されており、役者に脚本を渡さなかったんです。現場でその日に撮影するシーンのみを印刷した紙を渡されるだけで、どのようなストーリーの映画なのかは出演者も分からないのが当たり前でした。
ただ、僕は今まで120本近く映画に出演しましたが、この映画の撮影が最も過酷だった。日本でいうテスト撮影がなかったんです。監督はカメラを構えているだけで「君はどのような技術を持っているの? それを見せてよ」と、自分たちがアドリブで戦いを組み立てていくしかなかった。
――倉田さんたちが考案したアクションを監督がその都度確認して、撮影を進めていくという形だったのでしょうか?
そうですね。特にクライマックスで僕がジャンプ中にトドメの蹴りを食らうシーンは、監督が「もっと高く跳んで、打点の高い蹴りがほしい」となかなか納得してくれず、10回ほど撮り直しました。その後、1カ月ほど頭痛と吐き気が続いたんですけど、蹴りを浴び続けた結果、いつの間にかムチ打ちになっていたんですよね。このようにダメージが蓄積されて後遺症を患ったのは、後にも先にもこの映画ぐらいです。
華麗に蹴り技を見舞うドラゴン(右/ブルース・リャン)。敏捷さを活かしたドラゴンに対して、倉田保昭さん演じるブラック・ジャガー空手をベースに確実に相手を仕留める技を繰り出していく。
●蹴り技は一級品! アクション監督から俳優へと華麗に転身したブルース・リャンとの交流
――本作で主役のドラゴンを演じたブルース・リャンさんは、同時期に倉田さんが主演を務められた日本のTVドラマ『闘え!ドラゴン』(74年)でも相棒的な人物として出演されていました。ブルース・リャンさんのご印象をお聞かせください。
もともと彼はアクション監督だったんですよ。『帰って来たドラゴン』以前から、僕が出演した映画にアクション監督として携わっていましたが、とにかく身体能力がズバ抜けていて、特に跳躍力を活かした技には目を見張るものがあった。だから、『帰って来たドラゴン』の監督であるウー・シーユエンさんが俳優に抜擢したんですよね。
彼とは公私ともに親しくさせていただいて、何でも言い合える仲でした。「何かあった時は助けてよ。俺も助太刀するからさ」と言って、『闘え!ドラゴン』も彼は二つ返事で出てくれたんです。
――本作でのブルース・リャンさんとの激闘はいかがだったでしょうか?
本当に彼の跳躍力は凄まじいの一言に尽きる。ワイヤーやトランポリンといったものがない状態で、ジャンプひとつで僕の頭を軽々と飛び越えて、さらに蹴り技を披露するわけですから。
また市街地で、僕とリャンが両足を伸ばして壁をよじ登るところは、我ながら気に入っています。このシーンは偶然狭い路地を見つけて、リャンと二人で「脚力だけで壁を登るなんて、ブルース・リーは絶対にやらないよね」と(笑)。それが壁登りを思い付いた一番の理由でした。ちょっと重心を崩しただけで途端に滑り落ちてしまう。もちろん下にマットを敷いていますが、非常に危険な撮影でしたね。
見よ! ブルース・リャンの鋭すぎる蹴りを。倉田保昭さん主演の宣弘社のTVドラマ『闘え!ドラゴン』(74年)にて、ブルース・リャンは香港のインターポール捜査官マジン・リャンを演じたこともある。
●世界初のフィンガーグローブ着用者!? 偉大なるブルース・リーとの思い出
ブラック・ジャガーは物語中盤で、5本の指が露出した黒いグルーブを着用する。指を自由に動かせるため打撃のみならず掴み技、投げ技なども可能。いまや総合格闘技で当たり前となったオープンフィンガーグローブだが、そもそもブルース・リーが考案したと言われている。
――中盤で、倉田さん演じるジャガーがオープンフィンガーグローブを着用されます。今では格闘技で当たり前のアイテムですが、当時はまだ世間一般に馴染みがなくて、鮮烈な印象だったと思います。
あのグローブは監督のウー・シーユエンさんのアイデアですね。「ブラック・ジャガーなんだから、真っ黒なグローブを付けよう」と指示されて、当時の香港でもあのグローブは珍しかったので記憶に残っています。
ブルース・リーも『燃えよドラゴン』(73年)冒頭のサモ・ハン・キンポーとの戦いで似たようなグローブをしていたけど、確か『帰って来たドラゴン』の撮影の方が早かったように思う。ブルース・リーよりも先に僕が着用したことになるのかな。そのあたりの事実関係はよく分かりませんが。
――もしかしたら、倉田さんが世界で初めて映画でオープンフィンガーグローブを着用されたのかもしれませんね。ブルース・リーと言えば、本作の日本初公開時に倉田さんは「第二のブルース・リー」と宣伝されたとのことですが。
自分自身、「えっ、嘘だろ?」と思いましたよ(笑)。当時の宣伝スタッフが「第二のブルース・リーは日本人だ」と狙って、キャッチコピーを付けたんだと思います。
実際にブルース・リーとは友人関係で、香港で初めてお会いした際、「君はよくやってるね。お互い映画会社が違うから難しいと思うけど、僕の作品に出てもらいたい」と声を掛けてくれました。
当時、僕がいたショウ・ブラザースと、彼のゴールデンハーベストは裁判の真っ最中でしたけど、彼がアクション監督を務めた『麒麟掌』(73年)という映画で、僕は悪役で出演することができました。それ以降もブルース・リーとは親しくさせていただきましたが、近くにいたからこそ「俺はブルース・リーにはなれない」と痛感しましたね。本当に彼は偉大なアクションスターでした。
●凱旋後の記憶に残る日本作品。そして、香港のアクション事情
――倉田さんは50年以上前に香港に渡られて、日本の現場との違いで戸惑われたことはあったでしょうか?
僕は俳優デビューしてから、日本では2作品ぐらいしかアクションの経験がなかったんです。『柔道一直線』(69年)に出演した際、スタッフの方に「本気になってはいけないよ」とたしなめられたことがあって、自分としてはやりにくかった。
むしろ香港の現場は、アクションに関して「好きにやっていい」と俳優に任せてくれるので、自分の中で「これだな」と新天地を発見した気分でした。
――『帰って来たドラゴン』の初公開に合わせてスターとして日本に帰国されて、感慨もひとしおだったと思います。
「香港に渡ってたった2、3年で、こんなに人生が変わっていいのか?」と思いましたよね。当時、大学時代の友人から「お前がこうなるとは想像もつかなかった」と言われて、「俺もそう思うよ」と答えていました。だけど、その後、東映の『武闘拳 猛虎激殺!』(76年)という映画で本物のベンガル虎と生身で戦わされたことがあって、今ではありえないですよね。オファーを受けた僕自身が悪いんでしょうけど(笑)。
やっぱり日本での作品で言えば、『Gメン’75』(75年)に草野刑事役としてレギュラー出演したのが非常に大きいですね。あのドラマは香港でも強烈なインパクトがあって、幼少期に『Gメン’75』を観てアクションを志した人が香港でもたくさんいるんですよ。
――香港はブルース・リー以降も、ジャッキー・チェンやジェット・リーなど世界的スターを輩出していますが、倉田さんから見て、香港のどこにそういったパワーがあるのでしょうか?
やっぱり香港ではアクションがメジャーなんですよ。日本で言えば野球やサッカーのような感覚で、みんなスターを目指して日夜訓練に励んでいる。激しい競争を勝ち抜いて、ジェット・リーやドニー・イェンなどが俳優デビューを果たしたわけです。
だけど、それもウー・ジンぐらいまでですよね。今はもうCGなどで簡単にアクションを演出することが可能なので、鍛える必要がなくなった。これも時代なのかもしれません。
『帰って来たドラゴン』の頃はガラスを割るシーンでも、実際に素手で本物のガラスを割らなければならなかった。組手にしても、相手は本気のスピードとパワーで攻撃してくる。僕は幸いにもムチ打ち以外では大きな怪我を負わずに済んだけど、それは僕の最大の得意技が無類のタフさだったからです。そのおかげで、あの時代の香港を戦い抜くことが出来ました。
●同時上映の最新作の監督は平成ウルトラマン!
――今回の『帰って来たドラゴン』と同時上映される新作の短編映画『夢物語』についてもお聞かせください。わずか15分間の上映時間ですが、いま現在の倉田さんが数人の忍者を相手に密度の高いアクションを繰り広げます。監督が倉田プロモーション所属の中村浩二さんという、平成ウルトラマンのスーツアクターで有名な方ですが。
正直に言えば、中村くんに関して「監督を務めるのは、ちょっと早いんじゃないかな?」との気持ちがありましたが、今後のことを考えて、「短編映画なんだから、試しにやってみたら」と声を掛けました。非常に熱心に取り組んでくれて、この作品での立ち回りは彼が考えてくれました。
彼は監督のみならず忍者の首領役として出演もしているんです。彼は抑揚のきいた演技が得意だから、首領の立ち振る舞いも威厳があってサマになっている。その成果もあって、海外のレイクシティ国際映画祭で最優秀短編映画賞を受賞することが出来ました。欲を言えば、もう少し彼の芝居が弾けてくれれば、さらに良くなると思う。役者として監督として、今後の彼に期待しています。
――最後にこれから『帰って来たドラゴン』を鑑賞されるファンの方にメッセージお願いします。
50年前の映画が半世紀を経て再上映するのは珍しいと思いますが、僕は今でも色褪せていない作品だと思っています。ご覧になれば、きっと「自分も何かやらなきゃ」と気持ちが奮い立つでしょうから。ぜひ劇場に足を運んでいただいて、エネルギーを受け取っていただければ幸いです。
倉田保昭(くらた・やすあき)
1946年3月20日、茨城県出身。67年に佐藤純彌監督の『続・組織暴力』で映画デビュー。70年に香港のショウ・ブラザース社のオーディションに合格し、『続・拳撃 悪客』(71年)で香港映画デビュー。74年に『帰って来たドラゴン』を引っ提げて日本凱旋を果たす。『闘え!ドラゴン』(74年)、『Gメン‘75』(75年)は今も根強い人気を誇る。85年に倉田プロモーションを設立。現在も香港映画をはじめ数多くの海外作品に出演して国際的に活躍。
今井あつし(いまい・あつし)
編集・ライター。エッセイ漫画家まんきつ先生、かどなしまる先生のトークイベント司会、批評家・切通理作のYouTubeチャンネル『切通理作のやはり言うしかない』撮影・編集・聴き手を務める。
【公開情報】
映画『帰って来たドラゴン』《2Kリマスター完全版》は、7月26日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!