陸海空自衛隊を運用・管理するのが防衛省です。中央省庁の一つであり、日本の安全保障を担当しています。トップを務めるのは防衛大臣です。現在は、岸信夫氏が第21代目防衛大臣を務めています。防衛省は2007年1月9日に誕生しました。あまりに最近の事で驚かれた方も多いのではないかと思います。1954年7月1日、前身となる防衛庁が、総理府(現:内閣府)の外局の一つとして発足しました。
当時は、六本木にありました。六本木交差点を乃木坂方面へと歩くこと2~3分で正門前に行きつく駅近好立地。夜は青山一丁目から流れてきたおしゃれなOLさんや、六本木から河岸を変える酔っ払いサラリーマンが行き交うそんな場所でした。警衛についていた隊員は、「道を聞かれることも多かったです」と話していました。
現在の場所へと移転したのは2000年の事でした。ここには、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地があり、かつては東部方面総監部が置かれていました(1994年に朝霞駐屯地へと移転)。第32普通科連隊が最後まで所在していましたが、防衛庁移転とともに大宮駐屯地へと移駐し、現在に至ります。なお、防衛庁があった敷地は、その後東京ミッドタウンへと生まれ変わりました。
防衛省全体の構成人数は約26万8500人。その内約25万人が自衛官です。残りがいわゆる「背広組」(後述します)となります。内部部局として大臣官房をはじめ、各局が編制されています。
各局の他に、防衛大学校、防衛医科大学、防衛研究所といった3つの施設、そして2015年10月1日に、防衛省外局として新たに防衛装備庁が発足しました。自衛隊の装備品の開発・研究、補給等を行っています。以前は防衛庁技術研究本部と名乗っていました。この他、自衛隊中央病院や自衛隊体育学校など、陸海空自衛隊共同機関なども多数あります。
報道で度々「背広組」と「制服組」という言葉を見聞きします。「背広組」は、防衛省各局に務める“官僚”等を指し、「制服組」は、“自衛官”を指します。防衛省はこの2つの柱で成り立ちます。しかし、立場は明確に分かれています。例えば、「海の警察」であり、国土交通省の外局である海上保安庁などとは大きく異なる人事方式を取っています。
陸海空自衛隊が、日本列島を「方面」や「地方」等の隊区に分け、それぞれ警備担当区域を管轄しているように、海上保安庁も日本列島を「管区」に分けています。これら管区の長は保安本部長です。この本部長職を海上保安官(制服組)だけでなく、国土交通省の官僚(背広組)が務めるケースがあります。
しかしながら、方面総監(陸)や地方総監(海)、航空方面隊司令官(空)というポストに防衛官僚が着任する事はありません。陸海空自衛隊のトップである各幕僚長も必ず制服の自衛官が務めます。人事権も別であり、自衛官が防衛政務官を選ぶ事も、その逆に防衛官僚が将官を選ぶ事もありません。
防衛大臣については、現職の自衛官が務める事は絶対にできません。日本国憲法第66条には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という一文が明記されています。太平洋戦争の教訓から、政治に軍属の者が一切介入できないようにしたためです。これをシビリアンコントロール(文民統制)と呼びます。しかしながら、元自衛官であれば問題はありません。中谷元氏や森本敏氏など、元自衛官が防衛大臣となった例もあります。
防衛省内には、A~F棟とアルファベットが振られた建物が立ち並んでいます。靖国通り沿いから見た際に、飛び込んでくるひときわ大きな建物が、A棟です。各幕僚監部が置かれている防衛省の中枢です。屋上部分はヘリポートとなっています。
もともとA棟の場所には、市ヶ谷記念館がありましたが、敷地内東側の一角へと建物ごと移転しました。一度崩して、組み立てており、スケールダウンはしましたが、同じパーツを使って復元されているので、当時の雰囲気はしっかりと残っています。1937年に陸軍士官学校として建造され、その後、大本営陸軍部等として使われました。終戦後、講堂は東京裁判の法廷として使われ、防衛庁発足と共に、東部方面総監部となりました。1970年11月25日にこの場所で作家・三島由紀夫による東部方面総監人質立てこもり事件が発生。最後は総監室にて割腹自殺をしました。
厚生棟内には、セブンイレブンやファミリーマートといったコンビニやスターバックスコーヒーがある。