阪神淡路大震災から30年。『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』著者・堀内正美さんインタビュー

映画、テレビ、舞台などで様々な役柄をこなし、視聴者、観客に強烈な印象を与えてきた俳優・堀内正美さん。東京から兵庫県神戸市に移り住んで11年目となる1995年1月17日、阪神淡路大震災に遭遇した堀内さんは、被災者の方々を支援する市民ボランティア・ネットワーク「がんばろう!!神戸」を結成し、30年もの間、たくさんの人たちの心をつなぎ、互いに励まし、支え合う活動を続けてきました。

2024年11月8日には、堀内さんの30年にわたる復興支援・ボランティア活動の足跡をたどった著書『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』(月待舎)を上梓。堀内さんご自身の生々しい震災時の体験談を交えつつ、辛い状況に立たされた被災者と「みんなを助けるため、いま自分たちのやれることをやる」支援者とのつながりが、いかにして成立し、長年にわたって継続してきたかを追うドキュメントとしてまとめられています。

『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』
著:堀内正美 出版社:月待舎
価格1980円 kindle版1800円
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本書には、2011年の東日本大震災や2024年の能登半島地震をはじめ、予期せぬ大地震、大災害に見舞われることの多い日本で暮らす私たちに向けて、命と心を守るとはどういうことなのか、そして、他人が困っているときに自分は何ができるのか、何をすべきなのか……といった、人として大切なことが書かれています。ここでは『モノ・マガジン』の「ラジオ放送100年特集」(1月31日発売)と連動し、堀内さんが30年前、震災の大混乱の中にあって可能な限り多くの情報を発信しようと努めた「ラジオ」メディアの重要さを中心に、お話をうかがってみました。

写真/熊谷義久 文/秋田英夫

震災の中で抱いた「違和感」

――『喪失、悲嘆、希望』を拝読しますと、神戸市を襲った巨大地震で堀内さんのご自宅もかなりの被害を受けたにもかかわらず、ひどい倒壊や火災が発生した長田区へ赴いて救助活動を行われたとのこと。ご自身も大変な状態でありながら、被災者の方たちを助けにいかなければ、と思ったきっかけから教えてください。

堀内 僕が家族と住んでいた神戸市北区、そして西区あたりは、長田区や灘区に比べて被害が少なく、地震の当日からもう日常が戻り始めていたんです。でも、ほんの数キロ先では、とてつもない被害で愛する家族や住まいを失い、困っている人たちがたくさんいたわけでね。自宅付近の人たちがまるで何もなかったかのように、普段どおりの生活をしていることに違和感を持ったんです。

広島に原爆が落ちたとき、悲惨な状況の中でも、周辺で難を逃れた市民は、あたたかいおにぎりやお米を差し入れして被害者を支えました。すぐに人々の助け合いが始まったんです。昔から日本人には、そんな「困ったときはお互いさま」の考え、隣組の精神があったはず。「うちのところに何かあったら、おにぎりとか炊き出しを頼むよ。そのかわり落ち着いたら米代を払うからね」とか、地域同士で協定していた。

戦後、そういった仕組みがなくなっちゃったんです。30年前の震災で、そういったものの「喪失」がはっきり見えてきた。だからこそ、ひとりひとりが「できること」をやろう、みたいな動きを取り戻さなければいけないと、強く思ったんです。

――30年前はまだインターネットが人々の間に広まっておらず、携帯電話も誰もが持っているわけではなかった印象です。そんな中で、比較的手軽に情報を得ることのできるラジオは人々の間で重宝したのではないでしょうか。

堀内 情報を発信するメディアとしてのラジオは今から100年前の1925年に放送開始されましたが、その2年前の1923年、関東大震災がきっかけになって誕生したと言われているんです。東京のほぼ全域で甚大な被害が出たとき、流言飛語がまかりとおって、痛ましい事件が各地で起きた。それは正しい情報が人々の間に行きわたっていなかったから。

そんなことがあって、今、どこで、何が起きているのかを多くの人々が知る手段として、ラジオが必要だという声が高まった。当時は、電池を使わない鉱石ラジオも多かった。これがあれば、人々の不安がかなり払拭されたはずなんです。大きな災害が起きたとき、必要になるのは正確な情報。電波を通して発信する情報もあるし、メモを書いて残しておくのも大切な情報ですね。

30年前、僕はラジオ関西で月~金の早朝に生放送していた「おはようラジオ朝一番」の金曜パーソナリティーを担当していて、10ヶ月がすぎたころでした。震災が起きた火曜日の朝も生放送していました。震災の日も、その翌日も、ずっと途切れずに放送していたから、リスナーの方たちにはピンとこなかったかもしれないんですけど、ラジオ関西の社屋とスタジオもすごい被害を受けていたんです。本の中では淡々と、事実のみを書いていますが、あのとき僕が触れたスタジオの雰囲気は、文章にできないほど凄絶でした。

震災時のラジオ局

阪神淡路大震災発生から3日目、1995年1月19日、全壊判定の19階建てビルの二階にあるラジオ関西(AM神戸)の様子を堀内さんが映したビデオ映像より。

崩落した廊下に、スタジオで安否情報を続ける放送の声が響く。

――さらなる倒壊の危険のあるラジオ関西に堀内さんも行かれて、金曜日の生放送をされていたということなんですね。

堀内 火曜、水曜、木曜と途切れずに放送していたから、僕も最初、局は大丈夫だと思っていました。ところが、木曜日の夕方にラジオ関西へ向かうと、もう外からはっきりわかるくらい、ビルが崩れかかっている状態で、衝撃だったね……。13階建てビルの2階、4つあるスタジオの3つが倒壊して使えない。ひとつだけ生き残ったスタジオの中で、わずかなスタッフとアナウンサーが安否情報やライフライン情報を読み上げている姿が目に飛び込んできたんです。

安否情報を読み上げるアナウンサー。

――堀内さんはそんな危険なスタジオに入られたときの様子を、ビデオカメラで撮影して後々に残そうとされたそうですね。ご自身も危険を感じたりしませんでしたか。

堀内 木曜の夕方、スタジオに並べられた電話から被災者の人たちや情報を求める人たちの声が届き、僕もいくつか受話器を取りました。しかし、余震が来るたびに天井からパラパラと破片が落ちてくるし、夜10時くらいになると精神的に耐えられなくなって、誰にも告げずに外へ出たんです。

駐車場へ行き、車に乗り込み、エンジンをかけ、このまま家に帰っちゃおうか……とも思いつつ、カーラジオをつけると、さっきまで僕がいた場所で放送を続けるアナウンサーの声が聞こえてきたんです。ビルのところを見上げると、2階部分だけ電気がついているわけですよ。そんなのを見るとね、俺だけここで帰るわけにはいかないな、って思うよね。いつ建物が壊れるかわからない状態で、命をかけて戦っている彼らの「生きている証」を残しておかなきゃ……。それで、車の中に置いてあったビデオカメラを持ち、局へ戻りました。

改めてそのときの映像を見返すと、よくみんなあんな危ないところにいたなって、背筋が凍り付く思いです。あのとき僕は、小脇にクッションをかかえなから撮影を続けていました。怖くて、何か持っていないと落ち着けなかったんです。

局員が消息不明の家族や知人への呼びかけを求めるリスナーに対応する。

堀内さんのビデオ映像には局員にインタビューする堀内さんの姿も。

ビデオ映像を使用した書籍告知動画はこちら

(編集:秋武裕介監督)

「想像する力が大切です」

――スマホもSNSもない時代ですから、今のように気軽に動画を撮って発信することも簡単にはいきませんよね。そんな中で、リスナーからの電話をもらって双方向で情報のやりとりができるラジオの存在は、人々の不安を取り除くという意味でもありがたかったですね。

堀内 人は情報によって生きているからね。何も情報がなく、今自分の目の前で見えていることしかわからず、周囲で何が起きているかわからないと、不安で身動きできないじゃないですか。ここは危ないから行かないほうがいい、逃げたほうがいいと言われるから逃げるのであってね。不確かな情報が飛び交って翻弄されるのは困るけど、確かな情報を収集して、それに基づいて行動することが大切だと思います。

――もともとラジオというメディアは、送り手と受け手との距離が近く、親しまれやすい部分が魅力でもありますね。震災が起きる以前、堀内さんの番組ではどんなことをされていたのですか。

堀内 「おはようラジオ朝一番」が始まるまで、ラジオ関西では早朝の生番組をやっていなかったんです。それまでは、いわゆる普通のニュースだけ。僕が金曜日を担当することになったとき、自由にやらせてくれなくちゃ引き受けないって、最初に条件を出したんです。まず、朝からイヤなニュースは読まない。いいニュースしか伝えない。そして、自分でいろんな企画を考えて、早朝のラジオ番組でしかできないことをいろいろやりました。

三宮で深夜まで演奏をしていたジャズメンのみなさんに局まで来ていただいて、スタジオでジャズの生演奏を行うとか、船の無線室から放送したり、早朝の市場に機材を持ち込んで街頭インタビューをやったり……。楽しかったなあ~。

10ヶ月間、ラジオでどんなことができるかをしっかり学習したからこそ、震災の直後にラジオを有効に活用できたと思っています。どんな人がラジオを聴いていて、どういう情報を求めているか、わかっていましたからね。番組が終わってスタジオから出たあとも、携帯電話を使ってスタジオに連絡し「いま西のほうからレスキュー隊が来ているので、この道路にいる車は左右に分かれて、彼らをスムーズに通してください」などといった情報を、ダイレクトに発信していました。

「自分には大きなことはできないかもしれない。でも『こんなことならできる!』というものが絶対にある」と堀内さん。

――世間には、災害に見舞われた人たちを助けたいと思っていても、いざとなるとなかなか行動に移せない……どうすればいいかわからないといった人も多いのではないかと思います。何か行動を起こす際、最初の一歩としてどのようなことをすればいいか、改めて堀内さんからアドバイスをしていただけますか。

堀内 想像する力が大切です。何事も、自分の身に起こりうることだと想像すれば、もしこんな災害があったとき自分に何ができるんだろう、と考えるはずです。ひとつの方向だけを見るのではなく、いろんな角度から眺めまわして、自分に何ができるのか、こんなことならできるぞ、というものを見つける。そんな考え方を持ってほしいのです。

自分には大きなことはできないかもしれない。でも「こんなことならできる!」というものが絶対にある。それに気づけば、自然と行動に移せます。地震大国の日本ですから、大きな災害はいつ、どこで発生し、誰がどんな風に巻き込まれるのか、誰にもわかりません。もしも自分が被災したらどうしよう、どうすることが最善なのか、ひとりひとりが自分のためだと思って、想像力をめぐらせ、常日頃から考えていかなければならないと思っています。

情報の伝達手段として、今はSNSが発達しているからいろいろな領域でありがたい一方で、災害によって電気の供給が絶たれたとき、スマホもパソコンも使えなくなって無用の長物になりますよね。だからこそ、電気のいらない「鉱石ラジオ」を一家に一台置いておくとか、そういったところから始めて、地道に防災の意識を持ってもらったらいいかもしれません!

ハードカバー、312ページ。新聞、ラジオなど多くのメディアで紹介されている。

堀内さんの体験や考えが、読みやすい文章で綴られている。

本の帯。

プロフィール
堀内正美
ほりうち・まさみ
 1950年、東京都世田谷区生まれ。桐朋学園大学演劇科在学中にスカウトされ、1973年のTBS金曜ドラマ『わが愛』で俳優デビュー。以後、多くのテレビ・映画・ラジオ・舞台に出演し、多様な役柄を演じる。東京から神戸に移住して11年目となる1995年1月17日、阪神淡路大震災に遭遇してからは、被災者の方々を助ける市民ボランティア・ネットワーク「がんばろう!!神戸」を結成。数々の支援活動を精力的に行っている。

秋田英夫
あきた・ひでお
 フリーライター。『宇宙刑事大全』『大人のウルトラマン大図鑑』『日本特撮技術大全』『東映スーパー戦隊大全』『上原正三シナリオ選集』など特撮書籍・ムックの執筆・編集に携わる。バカ映画の巨匠・河崎実監督の『電エース』シリーズにおける電兄弟のひとり「電七郎」役で出演経験もあります。

【告知】

『モノ・マガジン』2-16日号「ラジオ100年」特集は1月31日発売。阪神淡路大震災とラジオに関する堀内正美さんの寄稿も掲載しています。ぜひご覧ください。

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