

日本でボウリングが一般的になったのは1952年以降のはずである。「東京ボウリングセンター」が港区青山に開業したのがその年だからだ。日本に進駐してきた米軍基地ではもちろん、それ以前から基地内にアレーを設けてボウリングのピンを弾けさせていた。極東一の空軍基地を抱える沖縄のコザでは、アメリカ軍関係者がチームそろいのボウリングシャツを作成して競技を楽しんでいた。彼らがどんな刺しゅうをシャツに入れたのかその一端をムギストアーが伝える刺しゅう原画から振り返る。
構成/ワールド・ムック編集部 写真/WPP Archives

嘉手納基地のフェンスの向こうは食べるものも、着るものも、読むものもすべてはアメリカそのまま。それが兵士とともに、ゲートを出てくる。コザの刺しゅう店には兵士が持ち込んだ刺しゅう原画が数多くある。それらは時代ごとの優れたストーリーテラーだ。コミックの登場人物からミリタリーがらみの標語までコザの町が見てきたアメリカのかたちがここにある。




かつてコザ市と呼ばれた町は、現在の沖縄県沖縄市である。ここには、極東最大の米空軍嘉手納基地がある。コザはその基地の、いわば門前町として、たいへんな時間を過ごしてきている。それは1960年代から1975年にかけての、ベトナム戦争が戦われていた時代にあたる。町の賑わいぶりは、「殷賑をきわめる」ではまったく追いつかないほどの「ドル札の雨が降る」とにかくハチャメチャな時代だったという。
この時代のコザの町には、ミシン刺しゅうをする店が30軒ほどあった。現在のコザゲート通りと中央パークアベニューが国道330号線と交わって、コザ十字路にいたる限られたエリア内にである。刺しゅうを入れる店は、そのサービスを受けられないと、日常生活が進まないであるとか、快適に過ごせない、という部類の店ではない。それなのに、30軒もの刺しゅう店が、どこも繁盛していたのだ。客は、嘉手納基地から、出てくる兵隊たちだった。
兵隊は、刺しゅうを求める。それには理由がある。さらには、軍隊と刺しゅうの関係の近さについては、「コザ・グラフィティ」(弊社刊ワールド・ムック1197)に詳述している。この刺しゅうを施す技術には、横振りミシンを使うこと。そうした横振りミシンによる刺しゅう技術は、群馬県桐生市が発祥の地とされることなども合わせて、前掲書にある。
今も沖縄市のゲート通りに、刺しゅうの店「ムギストアー」を営む麦倉巴氏は、群馬県桐生市の出身である。横振りミシンの使い手である麦倉氏が、沖縄にやってきたのは1957年である。まだ、ベトナム戦争が激化する前であり、沖縄もまだ日本に復帰していない。つまり、その当時から、すでに沖縄では、刺しゅうができる技術者が求められていたわけである。刺しゅう入りのジャケット、「スカジャン」が、極東土産として兵士たちに人気だったからだ。ベトナム戦争時代になると、刺しゅうを求める兵士は一気に増えた。ベトナムに行く兵士ばかりでなく、ベトナムから帰ってくる兵士がいた。あるいはレスト&レクレーション地として、沖縄は兵士たちに人気の場所になった。理由はいくつもあるが、食事から娯楽や土産まで、なんでも値段が安くて旨くて、上手かったからだ。「上手かった」とされるなかに、刺しゅうとタトゥーがあり、それは現役の兵隊たちの間では、今でも口コミで伝わっている。


コザが刺しゅうの町となり、店が増えていくなかで、ムギストアーは、独自のポジションを獲得していく。まず、日本の横振りミシン刺しゅう発祥の地、群馬の桐生出身というアドバンテージがあった。その技術に加えて、麦倉氏自身にアートセンスがあったし、ビジネスセンスもあった。それがあって、ボーリングシャツに刺しゅうを施すことにつながるのである。そこにいたる日々について、氏自身が次のように記してくれている。
■

1957年頃、沖縄においては、米軍人から発祥したボウリングゲームは徐徐に民間の人々へと移行、広まって行きました。その事から、沖縄でも各地に、ボウリング場が増えて行きました。ボウリングは、単なる個人で楽しむばかりでなく、愛好者グループを組んで、やがては、そのグループ同志が戦うという訳で、会社や商店、スナックのみ屋、車関係、建築関係等が宣伝の為に集まって戦うコマーシャルリーグへと発展して行きました。
米軍基地内では、各部隊の対抗は勿論の事、友人同志グループ(チーム)を作り、外部よりシャツを提供してくれるスポンサーを求めたりしました。……私のムギストアーも、数度、スポンサーを求められました。その代償が宣伝を兼ねた刺しゅう入りボウリングシャツであった訳です。
当時、1960年から1975年は、ベトナム戦争最中で、徴兵制による若者も多く、ベトナム行きで明日の命も保証無しとて、米ドルを惜しげも無く使った様であった。当時は刺しゅうもわりとめずらしいのか、人気があり沖縄市内(当時はコザ市)だけでも刺しゅう業者が、30軒もありました。
小さな我が店、ムギストアーは、ボウリングシャツに重きを置いていたので、ベトナム活気とは縁がありませんでした。ボウリングシャツは、チームで作るので、数量があり、作るにはめんどうであるが、他店では、あまりやらない、”ボウリングシャツはムギストアー”のアピールが効いた様でした。沖縄中に。
やがてベトナム戦争も終結し、米兵も徴兵制から志願制へと成った為、米兵相手の刺しゅうの仕事も、急激に無くなって行きました。加えて、ドル貨幣の固定相場が変動相場と成り、ドル価が急激に下がった事も、米兵の購買力が下がった事の理由である。……そして、刺しゅう業者の多くが廃業に追いやられた様でした……。
幸いと言えるかは分かりませんが、ボウリングブームは、米軍から民間へと広まっていたので、私のムギストアーのボウリングシャツ作りの仕事としては、米人客のまったく無くなった時でも、民間(沖縄の方々)の客にささえられて、しばらくの間は続いて行ったのである。
聞くところでは、日本本土でも各地でボウリング場が廃れて行った様でした。当の我が沖縄でも、同じ様な事が言える様です。
熱しやすく冷めやすいのは、我々の性格なのでしょうか?

(中略)かつての米軍人相手のボウリングシャツの刺しゅうデザインは、500チーム分くらい残っており、今、見ると、当時がなつかしく思われるのである。が、作品を写真に残して置けば良かったと残念に思います。
(麦倉巴氏、2020年1月記す。原文のまま)
■

ボウリングは個人で楽しむのはもちろんのこと、団体戦でトーナメントを戦う競技でもある。チームができたら、ユニフォームとしてそろいのボウリングシャツを揃える。沖縄のコザにはムギストアーがあるので、メッセージをよりよく伝えられる刺しゅう入りシャツがつくれるので人気だった。

ボウリングシャツはボックススタイルで襟は開襟でカラーブロックによる色ちがいシャツというのが一般的だ。でもコザはひと味ちがう。自分たちでデザインしたキャラクターを刺しゅうで入れられたからだ。

基地に駐屯する軍人から基地で働いている者まで、ボウリングを楽しむ人は大勢いた。彼らはチームを結成すると、デザイン画を用意してシャツをつくりにムギストアーにやってきた。これらは軍の部隊のキャラクターからコミックまでアメリカを直に伝える原画たちだ。

ボウリングシャツをチームでそろえるために、広告を背中に入れることでシャツをつくる費用を捻出するチームもあった。刺しゅう原画は当時のそうした事情から、今はもう存在しないボウリング場の名前まで、コザが過ぎてきた時間の証言者になっている。

動画もお楽しみください!

チャンネルページはこちら ▶︎