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東南アジアの空を我が物顔で飛び回り、北ベトナムから“空の海賊”と呼ばれたアメリカ空軍パイロット。USAFミュージアムに展示された彼らのフライトジャケットはひとつひとつが不思議なオーラを放ち、今も見る者を魅了する。MA-1とL-2Bを中心にそのコレクションをご紹介しよう。
Report/Mikako Burks Photo/Gary Coppage
構成/コンバットマガジン編集部、鈴木健太郎
フライトジャケットの代名詞とも言えるMA-1と、ライトゾーン用のL-2Bは朝鮮戦争の休戦とほぼ同時に採用されて以降20年以上もアメリカ空軍の制式品として君臨した傑作ジャケットで、大きく分けて初期型、中期型、後期型の3つのモデルがある。
左肩にエアフォースマークのデカールが付き、酸素マスクのホースを固定するボックスタブを装備していたこれらのジャケットは1960年代に入るとベトナムでの戦いを予期したかのようにライニングをレスキューカラーのインディアンオレンジに変更した中期型が現れ、このディテールは戦争の全期間を通して変更されることはなかった。
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軍隊では自らのキャリアを示すためにあえて古いデザインのユニフォームを着用する例がしばしば見られるが、60年代のアメリカ空軍もその例外ではなくベテランのパイロットやエアクルーの中には愛着のある旧式のジャケットを着続ける者もいたようだ。
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フライトジャケットを華やかに彩るパッチはベトナムやタイ、日本で作られたローカルメイドも多く、官給品よりも手の込んだ、あるいは雑な作りのこれらのパッチを使ってジャケットを自分好みにカスタムすることは実に簡単だったのだが、陸軍が毒の強い、自虐的なデザインを好んだのとは対照的に空軍ではコミカルで明るいスタイルが多く、徴兵された歩兵とエリートコースを歩んだパイロットのメンタリティーの違いが感じられる。
ベトナム戦争はミサイル万能論により格闘戦が重視されず、第2次大戦を経験したベテランパイロットが引退する時期と重なるなど空軍にとって不運な要素が多かったためにエースパイロットは3人しか生まれなかった。代わりに自慢となったのはこなしたミッションの回数で、ベトナムツアー完了を意味する100ミッション達成パッチはパイロットやエアクルーにとって垂涎の的となったが、ソ連のSA-2地対空ミサイルが待ち構える北ベトナムに乗り込んで何度も無事に帰還するには相当な技量が必要だった。
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敵の防空網を叩く新たなコンセプトとして空軍が考案し、1965年に実戦投入された“ワイルドウィーゼル”のパイロットたちは攻撃隊に先行して敵の注意を引きつけるという危険極まりない仕事を果たしながらマスコットのイタチをデザインしたパッチで存在感を示し、そのスタイルは現在でもほとんど変わっていない。空軍はこの戦争で2251機もの航空機を失い、SAR(捜索救難)によって635人のパイロットおよびエアクルーが救出されている事実を見るとジャケットのオレンジライニングが決して伊達ではなかったことがわかる。
戦争が終結しMA-1とL-2Bは制式フライトジャケットの座を新型のCWU-45/P、36/Pに譲った後もオレンジライニングを廃止したユーティリティージャケットとして着用を認められ、主に地上勤務員用として静かな余生を送った。
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第552早期警戒航空団のライル アーナー少佐が着用したMA-1は酸素マスクのホースを固定するボックスタブが付き、左肩にエアフォースマークがある初期型。アーナー少佐はベトナムに従軍した際に進級し、隣のパーティーシャツとベースボールキャップには中佐の階級章が付けられている。
少佐のMA-1に付けられたADC(AIR DEFENCE COMMAND=航空防衛軍団)パッチ、コマンドパイロット章、階級章はどれも官給品のようで、階級章やエアフォースマークを見るとかなり着込まれた様子がわかる。白いネームテープにステンシルでネームを記すスタイルは第2次大戦以前から見られ、革のネームタグが普及したベトナム戦争でもしばしば用いられている。
パーティーシャツに付けられた第552早期警戒航空団タスクフォース“COLLEGE EYE”のパッチに漢字で大眼と刺繍されているのはタスクフォースが当初BIG EYEと呼ばれ、支援基地が台湾にあったことによる。右のパッチは67年からタイを拠点として活動した第553偵察航空団“BAT CAT”、その隣は第553偵察飛行隊で、少佐が進級に前後して第552航空団のタスクフォースから第553航空団の飛行隊に転属したことが伺える。右袖にはタイ国旗パッチの下にベテランの証、100ミッション達成パッチが付けられている。
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1972年の5月から8月にわたって5機のMiG21を撃墜し、ベトナム戦争で初の空軍エースとなったF-4ファントムⅡのパイロット、リチャード“スティーブ”リッチー大尉のL-2Bはキムゼー軍曹のものと同じディテールを持っているが、ネームタグは直接縫い付けるのではなくビニールのホルダーに収められ、真ん中から綺麗に折れてしまっている。右胸のパッチはTAC(TACTICAL AIR COMMAND=戦術航空軍団)のものでADC、SAC(STRATEGIC AIR COMMAND=戦略航空軍団)と並ぶ主要軍団のひとつとしてこの戦争では多くの戦闘機や攻撃機を運用していた。
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第301給油航空団第91給油飛行隊のダン キムゼー軍曹が着用したL-2Bは空軍の服装規定を守って右胸に所属する航空団のパッチと、左胸に革のネームタグを付けている。ネームタグは下士官、兵用のシニアエアクルーバッジとSSGT(STAFF SERGEANT=2等軍曹)、USAFの文字が箔押しされているが、進級によるものかSSGTの文字が削り取られているのが面白い。ジャケットの裾に付けられた三角形のフラップはL-2シリーズにのみ見られるディテールで、コレクターにとってはMA-1との識別を容易にするポイントでもある。エアクルーやパイロットの仲間意識を強めたり、個性を表すのに欠かせないローカルメイドのベースボールキャップはその色や形に多くのバリエーションがあるが、第91給油飛行隊のパッチが付いた軍曹のキャップはつばに8本のステッチが入るなど手の込んだ作りである。
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初めて100ミッションを達成したB-52クルーの一人、デレク デットジェン少佐の-2Bは右肩に100ミッション達成パッチ、右胸に第93爆撃航空団パッチが付けられ、ネームテープの上にはマスターナビゲーター章の姿がある。「成層圏の要塞」というニックネームを持つB-52はベトナムでの破壊力を存分に見せつけたが、1972年12月に行われたオペレーションラインバッカーⅡでは1日に6機が撃墜されるなどミッションにはかなりの危険が伴った。
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初めて北ベトナムへの100ミッションを達成したエルドン“ジョー”カナディー大尉のL-2Bはポケットと裾のフラップ、そしてエポレットが省略されるという65年から69年にかけて見られる特徴を持っている。大尉は、RB-66C偵察機のEWO(ELECTRONIC WARFARE OFFICER=電子戦士官)で忙しい時には1日に3度も北ベトナムへの偵察ミッションをこなした。
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100ミッション達成パッチは65年3月から行われたオペレーション ローリングサンダーでF-105のパイロットが付けたのが始まりだが、彼らの中には普通のデザインでは満足しない者もいた。第388戦術戦闘航空団第469戦術戦闘飛行隊のウィル ケーニッツァー大尉はR&R(戦時休暇)でバンコクのプリンセスホテルに泊まるのがお気に入りだったようで、自分用にアレンジしたオリジナルパッチをMA-1の左肩に付けていた。大尉のパッチはF-105となるべきところがR&Rフライトで親しまれたパンナム航空に差し替えられ、遊び心満点の出来になっている。
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第355戦術戦闘航空団第344戦術戦闘飛行隊のベンジャミン ボウソープ大尉は1966年1月15日にF-105サンダーチーフのパイロットとして初めて100ミッションを達成した。F-105のシルエットが刺繍された右肩のパッチは第334飛行隊の他にも使用例があり、赤や黄色、緑などのカラーバリエーションが存在する。大尉は後に転属したようで右胸には第18戦術戦闘航空団のパッチが付けられている。
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リチャード“ディック”ルータン中佐は速度の遅いO-1やOV-10が多く用いられるFAC(FORWARD AIR CONTROLLER=前線航空管制)の中で、世界初の超音速戦闘機として知られるF-100スーパーセイバーに乗るMISTY FACのパイロットとして105回のミッションを達成したが、北ベトナム軍の対空砲火を受けて機体が炎上したために地上に脱出し、後にSARによって救出された。中佐はこの戦争で325回のミッションを達成した大ベテランで、L-2Bの右肩にはF-100による105ミッション達成を示すパッチとMISTYと刺繍されたタブが付けられているほか、横のヘルメットバッグも大量のローカルメイドパッチで飾られている。
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北ベトナムへのミッションを140回以上達成し、多くの勲章を受けたワイルドウィーゼルのパイロット、ビリー スパークス大尉のL-2Bは背中に大きなイタチのパッチが付き、いかにも誇らしげである。危険な任務とイタチはどう見ても不釣り合いだが、敵防空網制圧部隊というコンセプトは当初「プロジェクト フェレット」の名で進められ、この動物が危険を省みずに獲物のいる穴へ飛び込むという習性を持っていることを知れば合点がいく。鋭い目つきだがどこか憎めないマスコットのイタチにはウイリーという愛称がある。
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1973年1月27日のパリ和平協定に基づき、北ベトナムに捕らえられた591人のアメリカ人捕虜を連れ帰るオペレーション ホームカミングが2月12日に始まった。ここに飾られているL-2Bは捕虜の第一便を運ぶC-141、通称ハノイタクシーのナビゲーターを務めたジェームス C ウォーレン中佐が着用していたもの。中佐は第2次大戦では黒人のみで編成された第477爆撃航空群に所属し、朝鮮戦争にも従軍した。3度目の従軍となるベトナムで中佐の飛行時間は12000時間を超えており、月から帰還したアポロ14号の飛行士たちを太平洋から引き上げるリカバリーチームにも選ばれていた。このジャケットで注目すべきは輸送航空軍団パッチの上に付けられた10000飛行時間タブで、このタブを見て敬意を払わない者は少なくとも空軍では一人もいなかったであろう。マスターナビゲーターの資格を持つ中佐はパイロット試験の試験官を務めていたようで、右肩の第53輸送飛行隊パッチにはFLIGHT EXAMINERと刺繍されたタブが追加されている。
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第8戦術戦闘航空団第497戦術飛行隊を率いたマーク ベレント少佐(後に中佐)のK-2Bカバーオール。夜間攻撃を専門とするこの飛行隊は機体の下面を黒く塗り、出撃時は航空灯を点けず、パイロットは夜型の生活サイクルを送るという仕事の徹底ぶりで知られ、カバーオールも一般的なセージグリーンではなく黒いものを着用した。ニックネームの“Night Owls”は直訳すると“夜のフクロウ”となるが、夜更かし好きを表すスラングとしてもよく用いられ、彼らの任務にピッタリのネーミングといえる。後に進級し、第8航空団のFAC指揮官となる少佐のK-2Bは右肩にWOLF FACと刺繍されたタブが付けられ、ネーム、コマンドパイロット章、階級章、マスコットのフクロウなどは直接刺繍で仕上げられている。
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